物流不動産ニュース

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戦国の倉庫屋・田中与四郎 

田中与四郎は大永2年(1522年)、堺の豪商「ととや」に生まれた。家業は魚問屋とされることもあったが、実際は「納屋衆」だったようだ。納屋衆とは戦国期はじめごろに誕生した業種で、海岸や港湾に建てた納屋(倉庫)を賃貸したり、各地から運ばれてきた物産品を預かったりしていた商人を指す。納屋とは倉庫のことで、今でいう倉庫業である。

ととやは商都・堺でも指折りの富商だったようだ。与四郎の父、与兵衛の代までは魚問屋を商っていたらしく、ととやの屋号もそのころからのものだろう。与兵衛は堺の自治をあずかる会合衆の一員で、なかでも納屋十人衆の一人とされていた。納屋十人衆は堺の有力な倉庫業者10人からなり、与四郎の家が相当力をもつ倉庫業者だったことがわかる。

当時の倉庫業者・納屋衆というのは、今日のそれとはかなりイメージが異なる。そのころの日本には鎖国や藩制度などはその兆しさえなく、長く続いた乱世が生んだ新しい領主たちは進取の気性を持ち、流通の活発化を狙った制度を次々と打ち出して内戦状態ながらむしろ国内移動は増加したという。一方では冒険心に富んだ多くの日本人が海外に乗り出し、東南アジアの各地に日本人町を築いていった。貿易による富強化という概念が浸透したのもこの時代で、各地の大名は南蛮貿易を盛んにし、世界各地の物産品が日本に流入していたのである。当時の納屋衆とは、そうして生まれた富が集積する業種ととらえていいだろう。ととやもそのひとつであり、当然その納屋(倉庫)には世界各地の物産品がうず高く積み上げられていたに違いない。当時の倉庫業は世界中の珍しいものに触れることができる、最新ビジネスだったのだ。

与四郎は、おそらく周囲から勧められたのだろう。若くして茶の湯を学びはじめる。茶の湯は当時の上流階級のたしなみであり、また茶の席は社交の場でもあった。茶の湯は商人、大名を問わず、指導者層と付き合うための技術でもあったのだ。

おそらく実利的な理由から学び始めた茶の湯に、やがて与四郎は傾倒しはじめる。新しく、珍しく、そして美しいものに囲まれて育つという、恵まれた環境にいた与四郎は茶を学ぶなかで、華やかなものを否定し、あるがままの美を取り入れ、不完全なものこそ美しいという新たな美意識を確立していくのである。それでも与四郎は、最先端の美に触れることができる納屋衆の仕事に生涯関わっていたともいわれる。そうしたものたちとの触れ合いが彼の美意識を成立させる一要素となったことを考えると、日本の美術史に残るかれの足跡は倉庫にその一歩目を記したといっていいかもしれない。

田中与四郎、のちの千利休である。

 

久保純一 2018.5.20

 

 


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